真説・八正道1 序論・正見・正語
Sun, 28 Jun 2020 21:51:36 JST (1406d)
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1989年1月7日、 研修ホール
第1章 序 論
─反省の意味と前提─
- 反省とは何か
- なぜ「反省」というものがあるのか
- 「自分とは何か」を日々問い続けることの大切さ
- 人間とはどのような存在か
- 反省の出発点とは
- 信仰から「正しき心の探究」は始まる
- まず「神仏の創られた世界のなかに生きている自分」を知る
- 「仏法真理の道」に入る人に求められる心構えとは
- 反省への前提――三宝帰依の精神
第2章 正 見
- 見ることに伴う責任
- 「見る」ということに関し、心の改革が必要となる
- 視覚的映像を通して「神仏の意図」を発見する
- 神仏の業を見る
- 目は「霊的な進化と目覚め」に大いに貢献している
- 正見の「見」は「see」ではなく「look」の意味
- 「正見」の出発点
- 「見る」という行為の反省の入り口は「他人の姿」
- 不幸の根拠は自他の「理解のギャップ」にある
- 自他の姿は合わせ鏡
- 正しく人を見るための判断基準
- 映像を客観的に捉える
- 自分の感じ方を知る
- 相手を相手の立場から見る
- 仏法真理の立場から見る
- 神仏と心を通わせる気持ちで、自他の思いを見る
- 愛に先立つ智慧
- うぬぼれて、増上慢になっている人をどう見るか
- 愛の与え方において、それに先立つ智慧があったかを反省する
- 多様なる認識の上に
- 霊的に成長するほど、多様な見方ができるようになる
- 多様な見方をした上で、神仏の心に近い判断を出す必要がある
- 優しさと厳しさをベレンドして人を見る
- イエス・キリストの最後に学ぶ「人を正しく見ることの難しさ」
- ユダの問題は、イエスの優しさゆえに招いた悲劇とも言える
- 釈尊は、「人を見る」ことにおいて、イエスと違いがある
- 環境に対する視点
- 生かされている世界が見えるか
- 「心が変われば環境も変わって見える」「心に応じた環境が現れてくる」
- 植物・動物へのまなざし
第4章 正 語
- 言葉の影響力
- 口に出した言葉が自分と他人の幸・不幸をつくり出す
- 言葉は「世界をよりよく創造していく愛」にも「世界を破壊する暴力」にもなる
- 自他を損なう不用意な言葉
- 「正しく語る」ということの探究には終わりがない
- 不用意な言葉で他人を傷つけたり、感情を害したりしていないか
- プライドを捨て、素直に謝罪する
- 反省する姿を見ると、天使は喜び、悪魔は近寄れなくなる
- 自分に間違いがあったり相手の感情を害したりしたら、素直に謝る
- 他人の言葉の受け止め方
- 注意されたら感謝せよ
- 怒られて「ありがとうございました」と言える人は"偉人"
- 「素直な態度」は相手を変える
- 言葉で人をつくる
- 心を鬼にして叱らなければならないときもある
- ある程度の限度に来た段階で、分割して叱る